日中国交正常化50周年記念コラム 第26回(青樹明子)

 日本と中国の国交が正常化されてから50周年となる本年、日中友好会館ではホームページとメールマガジンで「日中国交正常化50周年記念コラム」を連載いたします。

 日中交流に長く携わった方や、日中友好会館の各事業に参加された幅広い世代の方に、日本と中国に関わりのある事柄、随筆、これまでの日中交流のエピソードや、これからの日本と中国に向けての期待・希望などメッセージを執筆いただき、一年にわたって連載します。また、日中民間交流の拠点として貢献する日中友好会館の取り組みなども合わせてご紹介します。

 日本と中国のこれまでの歩みを振り返りながら、新しい友好関係の構築に向けたプラットフォーム作りの一助となれば幸いです。

 

文化は政治を超える

公益財団法人日中友好会館 理事 青樹明子

 

 これは、日中関係が氷河期と言われた時代の出来事です。

 

 「私の名前は“おにぎり”です」

 

 北京でクールジャパンを取り上げるラジオ番組を放送していた頃、彼女は熱心なリスナーだった。当時高校生で大学受験を控えていた彼女は、親の目を逃れてカーテンの陰でカセット録音し、毎日通学の時に番組を聞いていたという。毎週のようにくれた手紙は、底抜けに明るい内容で、私はその手紙が大好きだった。

 しかし、明るい手紙の裏には、悲しい現実があったことを後に知る。

 「当時私はとても孤独でした。性格は暗く、太っていたので、クラスの男子からイジメの対象にされました。友達は一人もいなくて、クラスメートの名前すら知りませんでした」

 そんな彼女がラジオを通じて「日本」と「日本文化」に触れた。

 「X JAPAN、GLAY…J-POPは大好きになりました。番組を通じて、初めて友達ができました。日本文化と日本を愛好する友達が、私を孤独から救ってくれたのです」

 その後彼女は大学に進学する。選んだのは「日本語学科」で、日本に留学も果たした。

 

 彼女と彼女が私にくれた手紙は、私の宝物だった。

 彼女のように、純粋に日本文化を愛してくれる中国人がいたから、何があっても、日中文化交流を続けて来られたように思う。

 そんな私の宝物が、昨年6月半ばのある日、突然旅立った。まだ三十代である。

 彼女の遺品整理をしていらしたご両親が、「娘の携帯に大量のデータが残っている。日本語なので何が書かれているのかわからない。訳してくれないか」と連絡があった。見ていたら、それらはすべて日本のアニメや音楽などの情報と、ネットでの予約注文の履歴だった。

 最後の最後まで、彼女は日本を愛し、大好きな日本文化に囲まれながら逝ったのである。

 

 彼女が頻繁に手紙をくれた、その番組が放送されてから、すでに20年が過ぎた。おにぎりさんを孤独から救ったリスナーたち、すなわちおにぎりさんの仲間たちは、今なお、SNS上で集う。

 文化は政治を超える、と気づかせてくれたのは、彼ら、そして彼女たちだった。文化交流の神髄はここにある。

 

 饭团子,失去了你姐姐非常难受。。

 

【日中国交正常化50周年記念コラム アーカイブ】

 

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