新時代を担う日中友好の架け橋に

日中国交正常化50周年記念コラム 第37回(高原明生)

 日本と中国の国交が正常化されてから50周年となる本年、日中友好会館ではホームページとメールマガジンで「日中国交正常化50周年記念コラム」を連載いたします。

 日中交流に長く携わった方や、日中友好会館の各事業に参加された幅広い世代の方に、日本と中国に関わりのある事柄、随筆、これまでの日中交流のエピソードや、これからの日本と中国に向けての期待・希望などメッセージを執筆いただき、一年にわたって連載します。また、日中民間交流の拠点として貢献する日中友好会館の取り組みなども合わせてご紹介します。

 日本と中国のこれまでの歩みを振り返りながら、新しい友好関係の構築に向けたプラットフォーム作りの一助となれば幸いです。

 

50年前を振り返って

「日中青少年交流事業」諮問委員会委員 高原明生

 1972年、私は中学2年生でした。田中首相、大平外相が訪中し、国交正常化が実現して世の中が湧き立ったことをよく覚えています。その頃、読んでいた本が吉川英治の『三国志』でした。今は時効ということで白状しますと、あまりに面白くて止まらなくなり、学校をずる休みして読み続けた思い出があります。

 当時、日本では文化大革命の実態を知るすべはありませんでした。高度成長が日本社会にもたらした光に対して陰も色濃く感じられる時代でした。実情を知らないまま、中国の社会主義に期待する雰囲気が世の中にあったように思います。

 それとは無関係ですが、1976年9月9日未明、私が高校3年生の時に不思議なことがありました。1時半頃なぜか目が覚め、ふと窓外を見ると東京の空が赤くなっていたのです。翌朝学校に行くと、同級生にも赤い空を見た人がいました。おわかりと思いますが、ちょうどその時分に毛沢東が死去したのです。この経験を授業で披露すると中国人留学生が喜ぶのですが、本当の話です。

 大学に入り、中国語を学び始めましたが、当時、中国大陸の個人旅行はできませんでした。そこで1980年夏、半月かけて台湾を一周する旅をしました。大学4年生でした。戒厳令の下、民主化運動が弾圧されていた頃の台湾です。

 行く先々で、国民党の独裁についてどう思うか、様々な人に聞きました。すると意外なことに、今のままでよい、国家あっての個人の幸せだと全員が一様に答えたのです。ですが、実際にはその数年後、台湾は民主化の道を歩み始めたのでした。

 私は結局、中国政治研究者になったのですが、中国の文化や歴史、そして政治や外交などから学び、考えさせられることで自分の人生が成り立っているように思います。その過程でお世話になった多くの中国の人々には深く感謝しています。

 1996年、北京の日本大使館で研究を始める際、東大名誉教授の福田歓一先生にアドバイスを求めました。先生は私に対し、君は中国の一般の人々のためになる研究をしなさい、とおっしゃったのです。それはとても難しいことですが、その言葉を忘れずに、これからも努力していこうと思います。

(東京大学大学院法学政治学研究科 教授)

 

 

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