新時代を担う日中友好の架け橋に

日中国交正常化50周年記念コラム 第57回(小笠原亨)

 日本と中国の国交が正常化されてから50周年となる本年、日中友好会館ではホームページとメールマガジンで「日中国交正常化50周年記念コラム」を連載いたします。

 日中交流に長く携わった方や、日中友好会館の各事業に参加された幅広い世代の方に、日本と中国に関わりのある事柄、随筆、これまでの日中交流のエピソードや、これからの日本と中国に向けての期待・希望などメッセージを執筆いただき、一年にわたって連載します。また、日中民間交流の拠点として貢献する日中友好会館の取り組みなども合わせてご紹介します。

 日本と中国のこれまでの歩みを振り返りながら、新しい友好関係の構築に向けたプラットフォーム作りの一助となれば幸いです。

 

「海不揚波」、「明天会更好」を願って

2008年日本青少年訪中代表団第2陣経済界分団長 小笠原 亨

 

 14年前、私は中国政府の招待で、日本青少年訪中代表団の一員として北京、瀋陽、大連を巡る旅の中にありました。毎年4000人もの日中の青少年を、4年間にわたって相互訪問させようというこの大プロジェクトは、2008年を「日中青少年友好交流年」とするという両国政府の合意に基づくものです。交流年のキャッチフレーズは「明天会更好(より良い明日へ)」。

 中国政府は日本の青年を招待したはずですが、日中友好事業の一翼を担うことを強く願っていた当時48歳の私は、関係者の皆さまに大変な無理をお願いし、経済界分団の分団長として参加することができたのでした。

 

 経済界分団は、日本の金融、商社、メーカーなどの若手29名から構成され、福田康夫前総理(当時)と温家宝総理(当時)も参加された北京での交流年閉幕式、中国商務部訪問、瀋陽の自動車工場見学など、7日間の日程を精力的にこなしました。北京人民大会堂のパーティーで、飛び込みの郭晶晶選手と写真を撮ったり、大連外国語学院で日本語を学ぶ生徒さんたちと交流したりしたことは、懐かしい思い出です。中でも印象深かったのは、気温零下20度の瀋陽の冬の夜。日本の青年たちは、極寒の地でわざわざ裸になって写真を撮っていました。成田到着は12月24日の夕方でしたから、青年たちは中国で買ったクリスマスプレゼントを握りしめて、帰国を待つ恋人のところに飛んで行ったことでしょう。

 

 この10月、久しぶりに、2008年冬の同行メンバー数名が集まり、日中国交正常化50周年を祝って都内の中華料理店で同窓会を持ちました。連絡を取ってみると、当時20歳代の独身青年たちは、今や父親、母親に。同窓会は、昔の旅の思い出話と、今の仕事、家族の話で、大いに盛りあがりました。

 

 最後に私事を少し。帰国後、大正14年生まれの父に「満洲に行ってきた」と話すと、「そうか。わしは戦時中、ハルピンに居た」とのこと。戦争が好きでなかった父は、当時のことをあまり語らなかったので、初耳だった私はとても驚き、困難だった父の青年時代に思いを馳せる機会をくれたこの旅に、大いに感謝したのでした。

 実は、私の母方の祖父は、外航船の船長をしていた頃、孫文を乗客として迎えたことがあり、そのとき記念に揮毫してもらった「海不揚波」(海、波を揚げず。天下泰平の意)は、神戸市舞子の孫文記念館に収められています。中国革命の父も、心の中で平和を強く望んでいたことでしょう。

 

 2008年の日中青少年の相互訪問が、「海不揚波」、「明天会更好」の思いを未来に伝え続けることを願ってやみません。

(ENEOSトレーディング株式会社常勤監査役)

 

14年ぶりの同窓会 筆者(左3)

 

2008年12月 天安門広場にて
訪中団経済界分団

 

【日中国交正常化50周年記念コラム アーカイブ】