新時代を担う日中友好の架け橋に

日中国交正常化50周年記念コラム 第59回(凌星光)

 日本と中国の国交が正常化されてから50周年となる本年、日中友好会館ではホームページとメールマガジンで「日中国交正常化50周年記念コラム」を連載いたします。

 日中交流に長く携わった方や、日中友好会館の各事業に参加された幅広い世代の方に、日本と中国に関わりのある事柄、随筆、これまでの日中交流のエピソードや、これからの日本と中国に向けての期待・希望などメッセージを執筆いただき、一年にわたって連載します。また、日中民間交流の拠点として貢献する日中友好会館の取り組みなども合わせてご紹介します。

 日本と中国のこれまでの歩みを振り返りながら、新しい友好関係の構築に向けたプラットフォーム作りの一助となれば幸いです。

 

佐伯喜一氏の科学技術15年格差論――日中科学技術協力の在り方を考える――

福井県立大学名誉教授 凌 星光

 

 日中国交正常化50周年に当たって、科学技術交流面でのエピソードを一つ披露したい。1980年代半ばに深圳で開かれた日中経済知識交流会での出来事である。

 日中経済知識交流会についてはNHKの「改革を推し進めた日本人」で詳しく紹介されたが、中国の谷牧副総理と大来佐武郎氏の主導の下で改革開放初期に結成された、毎年日本と中国で交互に開かれる官庁エコノミスト知識交流会のことである。1980年代においては、中国が戦後日本の経済経験に学ぶという面が強かった。

 日本側のメンバーには大来佐武郎氏ほか、向坂正男、篠原三代平氏らと共に野村総合研究所社長佐伯喜一氏が名を連ねていた。日本の戦略問題の代表的専門家である佐伯氏が、座談会方式の会議で、「日本と中国の人口、国土、歴史などから見て、日本が対等で中国と対するには、科学技術面で常に15年の差をつけておかなくてはならない」と述べた。この発言は中国側メンバーを刺激し、日本は技術移転に消極的と映り、小さな波風が立った。

 当時、日本は中国の改革開放政策に両手を挙げて歓迎し、日中友好関係は黄金時代にあった。技術面でも子々孫々にわたる友好関係の精神で交流できると中国側は考えていたため、「常に15年の差をつけておく」というのは思いがけないことであった。中国側メンバー同士で話し合う場で、日本側の立場からすれば、佐伯氏の言葉は理解できないことではないと、私は控え目に述べたが、焼け石に水であった。その後、この言葉は広く伝わり、日本は技術移転に消極的という見方が定着していった。

 実際には、技術移転について前向きな社長も少なくない。例えば、浜松ホトニクスの故昼馬輝夫社長は1980年代初めに、中国の代表団にすべてを見学させ、部下たちが技術の流出を懸念すると「技術で追い越されるような企業は潰れたらよい」と発破をかけたとのことだ。勿論、守るべき企業秘密は守るのだが、「既存技術の保守」に頼るのではなく、絶えず技術を開発していく精神こそが大切ということであろう。

 今や中国の科学技術は先進国と肩を並べるほどにまで進歩した。その目覚ましい発展において、個々の技術移転よりも、人材の養成の方が影響力は大きかったであろう。日本の科学者が中国の留学生を数多く養成し、現在、中国科学アカデミーの「院士」になっている者も少なくない。

 現在日本は、米国の圧力によって中国に対する先端技術のデカップリングを強いられている。そのための経済安全保障推進法も整備された。しかし、技術封鎖にはおのずから限界がある。経済界も過度の規制は日本経済の競争力を弱めると危惧する。

 ここでドイツの対中経済技術政策が参考になる。中国への技術移転に積極的で、そのお陰で両国間の経済技術交流が大いに進み、相互にメリットを得た。現在、電気自動車で中国は世界の先端を走っているが、それもドイツに留学し、ドイツの自動車工場で重役を担っていた万鋼氏(後に帰国し科学技術部長)の今世紀初めの戦略的提言によるものであった。

 11月17日、日中首脳会談が開かれた。日中関係は新たな好ましい段階に入ろうとしている。技術的格差がかなり縮小した現在、科学技術面で新たな協力ウイン・ウイン関係の仕組みを築くべきではなかろうか。

2022年11月18日

 

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