新時代を担う日中友好の架け橋に

日中国交正常化50周年記念コラム 第61回(朱建榮)

 日本と中国の国交が正常化されてから50周年となる本年、日中友好会館ではホームページとメールマガジンで「日中国交正常化50周年記念コラム」を連載いたします。

 日中交流に長く携わった方や、日中友好会館の各事業に参加された幅広い世代の方に、日本と中国に関わりのある事柄、随筆、これまでの日中交流のエピソードや、これからの日本と中国に向けての期待・希望などメッセージを執筆いただき、一年にわたって連載します。また、日中民間交流の拠点として貢献する日中友好会館の取り組みなども合わせてご紹介します。

 日本と中国のこれまでの歩みを振り返りながら、新しい友好関係の構築に向けたプラットフォーム作りの一助となれば幸いです。

 

日本語学習歴からの連想

東洋学園大学教授 朱 建榮

 

 日中国交50周年を迎えたが、私の日本語学習歴も50年になった。まだ中学生だった私は、白黒テレビの前で周恩来と田中角栄の両首相が国交正常化の実現で杯を交わす画面を見て、日本のことについて初めて興味と関心が湧いた。

 翌1973年、上海のラジオ局は全国初の日本語講座を開講した。自分はほぼ毎日11時50分に午前の授業が終わると走って帰り、ラジオをつけて正午からの講座を聴講した。

 中学卒業後、崇明島の農場に3年間下放されたが、野良仕事をしながらラジオ講座を聞き続けた。仲間もでき、時々集まり、日本のことを語り合った。夢のまた夢とわかっていても一度は日本に行ってみようと初めて思った。

 

 文化大革命が終わり、農村から華東師範大学の外国語学部日本語科に念願通りに入学できた。勉強が始まって間もない頃、担当の中国人教師が授業中に話したことを今でも覚えている。「中国人にとっての日本語は、三日勉強すれば半分分かるが、三年勉強しても半分しかわからない奇妙な言葉だ」。

 その後、日本と深い縁を持つようになるが、今でも日中相互理解の難しさを時々感じ、そしてかつて日本語を教えた先生の言葉を思い出す。

 両国とも漢字を使うので、相手国の新聞を手にしたら「半分分かる」ような気がするのはおそらく私だけではない。だが勉強すればするほど、相手国の言葉はたとえ字面が似通ってもその背後にあるニュアンスや文化や思考様式がかなり違うことを痛感する。

 

 日中両国の相互理解も、同じような二段階があるのではないか。初対面の時には同じ東洋人的な顔、飲食や生活習慣の多くに共通点があることで親近感が湧く。しかし深入りするほど、「戸惑い」が増え、それは誤解・反発に発展する場合もある。

 日中間はこのような二段階があることを自覚しながら、更に第三段階を目指すべきだ、というのが自分の「日本語歴50年」の感想だ。

 

 東洋人同士で親しみを持つこと自体、悪いことではない。同時に、相手国の歴史・文化を先入観なしにもっと勉強する必要がある。私は、相互理解が深まれば、日中韓三国の文化と理念の根底に、平和と環境を大切にし、社会と人間の調和を重視するなど「東洋の価値観」が共有していることにたどり着くと思う。まず相互の理解と尊重を進めた上で、今後は、共通する東洋文明をもって、今日の世界が抱える難題の解決に共にソリューションの智慧と方法を出すことを期待したい。

 

 

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