日中国交正常化50周年 日中和解の歴史を振り返りつつ、前進を!!

 多くの日本人の心からの期待のなかで、築き上げた日中和平の50年。オメデトウ、という前に、もう一度、50年前に苦渋のなかで実らせた両国のプロセスを頭に刻みたいと思います。
 1972年の国交正常化は、日本国中を喜びに沸かせました。しかし、その前史を忘れてはなりません。あえて古傷に触れれば、戦前の清国の時代には中国再生を目指す留学生が多数来日し、神田や早稲田界隈などで学んでいました。しかし、孫文らの蹶起によって中華民国が生まれ、対日感情の悪化もあって、留学生はほぼいっきに帰国して独立運動に参加、さらに日本軍部などの侵攻は両国関係を悪化させました。
 戦争が終結し、中華人民共和国が建国され、新たな動きが始まります。戦前の満州国留日学生会館は再出発、1962年に日中学院が発足して25人が就学します。その頃から、日本の政治家の一部は、将来の若者たちの受け入れ先として先行した動きをひそかに進めていました。長老の松村謙三、古井喜実、川崎秀二、田川誠一、また宇都宮徳馬といったひと握りの政治家たちが、時の岸信介、佐藤栄作の政権に挑戦し、日中和平に向かうべき歴史の正しさをアピールし続けました。その苦難の道は省略しますが、とにかく政治生命をかけた闘いでした。
 1962年高碕達之助・廖承志間でLT貿易の覚書が交わされ、この裏方には古井さんがいて、しかもその5年の期限が切れたあとには、毎年延長交渉に臨んで継続、この間の精神的な苦労と粘りは古井さんならでは、の信頼と力量でした。さらに、64年には記者交換の協定が交わされ、情報の交流が可能になりましたが、これも古井、田川さんの功績でした。
 こうした営々とした努力が田中角栄首相のもと、72年の国交正常化を実らせ、翌年には留学生を本格的に受け入れることになりました。国交の回復は紆余曲折、難関もありましたが、80年華国鋒・大平正芳両首脳のもと、留学生受け入れの会館建設の話が出て具体的な動きが始まります。82年日中友好議員連盟が生まれ、趙紫陽・鈴木善幸会談で会館建設が合意され、翌年にはこの財団法人日中友好会館(のち公益財団法人)が発足します。
 形は整いましたが、実際に資金集めは大変でした。中核の古井さんはあちこちの団体、企業に電話をかけ、初代事務局長の村上立躬さんが各方面を駆け回る、といった図でした。筆者(羽原)は朝日新聞政治記者として、そのころ中核にいた古井さんを取材、飲みつつの話や、戦前に茨城県知事を務めた縁のある、水戸のゴルフ場に出かけた際に往時の話を伺ったりしていました。「そのうち、学校の授業に中国語が入るよ」などの話も出ていました。
 85年別館が完成し、まず後楽寮、日中学院が収まり、次いで88年に待望の本館ができてホール、美術館、ホテル、レストランなどが生れ、今日に至ります。

寄贈された廖承志中日友好協会会長像 1989年

古井喜実日中友好会館会長像 除幕式 1999年

 ところで、本館の地下に古井さんと廖承志さんの像があります。以前、若い方に「あれはだれ?」と聞かれたことがあります。廖さん(1908-83)は、実は東京生まれで、暁星小学校に通い、東亜高等予備校を経て早稲田第一高等学院、さらに早大と中央大に学んだ最高の知日派でした。孫文の知遇を得たのも東京でした。先に触れたLT貿易の「L」は廖さんのLと高碕さんの「T」。また、中国要人の一人として日中正常化の際には、毛沢東、周恩来両首脳の通訳を務めました。初代の中日友好協会長を63年から歿時まで20年間務めました。
 一方の古井さん(1903-95)は池田内閣の厚相を務めましたが、なんといっても日中国交正常化の根回しなど縁の下を支えた力量は忘れられません。
 昨今の日中関係は厳しいものがありますが、やはり国交を支えるものは途切れることのない民間の交流です。日中友好会館の役割は地味であっても、いわば両国の基調になります。先人の労苦を思いつつ、これからも頑張りたいものです。

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